相撲の歴史

相撲の起源武家の時代明治維新以降日米開戦以降現在迄 

起源
相撲 歴史 神事

相撲の起源は非常に古く、古墳時代の土偶にもその様子が描写されています。

相撲の歴史を紐解くには神話の部分が多く有ります。それを一部紹介致します。

神話としては、建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方神(タケミナカタ)という2柱の神が、互いの腕をつかんで投げあうという形の相撲をおこなったとされています。

伝説上 人と人の相撲の最古のものは、
野見宿禰相撲 歴史 神事当麻蹴速相撲 歴史 神事の試合と言われる。この中では宿禰が蹴速を蹴り技で倒したとされ、少なくとも現代の大相撲とはかなり異なるものであったことは明確であり宿禰は相撲の始祖として祭られています。なお、「蹴速」には「蹶速」という表記も見られます。
垂仁天皇7年(360年頃)7月7日 「大和国 当麻邑(たいまむら)に当麻蹶速(たぎまのくえはや)と いう者が天下に自分より強い者はいないと申しました。                               
そこで天皇が群臣に他に力自慢の者はいないかと訊ねられたところ、出雲に 野見宿禰(のみのすくね)がおりますという答えが有り早速両者が呼び出されて試合をすることになりました。これが一般に 「相撲」の起源とされています。
これは一方が死ぬまでやった訳 で、結果は野見宿禰の勝ち。当麻蹶速はアバラ骨と腰骨を 折られて死亡しました。
相撲 歴史 始まりそして当麻蹶速の土地は召し上げられて野見宿禰に 与えられます。そして野見宿禰はそのまま天皇のもとにお仕えすることにな りました。
なお、野見宿禰の子孫は埴輪を焼く作業に関わったため「土師(はじ)」 の姓を賜ります。土師氏も古代有力氏族のひとつです。そして菅原道真らを輩出した学問の家・菅原家もこの土師の一系統です。
このため天神社に野見宿禰がいっしょにお祀りされている例も見かけます。
相撲 歴史 野見宿禰 相撲の神様と称される野見宿禰
野見宿禰神社も有ります(兵庫県たつの市)、((東京都墨田区亀沢)、
奈良県桜井市・出雲の十二柱神社(神代(かみよ七神とその後の地神五神を祭神とする神社)には
野見宿彌の顕彰碑や五輪塔(鎌倉初期の石塔)が建てられています。

史実として記録されるのは
皇極天皇元年(642年)百済(くだら)の王族の使者をもてなすため、健児(こんでい)に相撲を取らせたことが 『日本書紀』 に書かれています。これが史実における相撲記事の始めとされています。
神亀3年(726年)聖武天皇が伊勢大廟をはじめとして21社に勅使を遣わし
この年の豊作の感謝の意味をこめて諸社神前にて相撲を奉納しました。聖武天皇
天平6年(734年)7月7日聖武天皇が野見宿禰と当麻蹴速の試合の故事に因み七夕の日、全国の相撲人を集め宮中紫宸殿の庭で相撲を取らせた『続日本紀』・これが天覧相撲の 最初の記録となり この頃が 相撲節会(すまいのせちえ)の儀式の始まりとされています。

相撲 歴史 相撲節会「相撲節会」


宮中で行われた相撲節会のほか、一般の庶民の相撲も大いに行われていた。天下泰平、五穀豊穣、
子孫繁栄、豊漁を願う為、
吉凶を占う為等 地方により様々な相撲が現在に至る迄行われる事になる

相撲 歴史 草相撲庶民の草相撲

延暦12年(793年)この頃より天覧相撲が毎年恒例の催しとなりました。
天長10年(833年)5月 仁明天皇が相撲節は単に娯楽、遊戯の為だけでなく武力の鍛錬が中心目的であると勅命を下す。

承安4年(1174年)7月27日 高倉天皇の相撲天覧が有りました。これが最後の節会相撲となりました。
安元2年(1176年)12月伊豆柏峠で河津三郎と俣野五郎の相撲が行われた。『曽我物語』

治承4年(1180年)4月〜寛治1年(1185年)3月 源氏・平家の合戦が起こり約400年に及んだ節会相撲の儀式が途絶えました。



武家の時代

文治元年(1189年)4月3日源頼朝が鎌倉八幡宮にて将軍上覧相撲を行う。『吾妻鏡』
将軍家上覧相撲の始まり。
正嘉元年(1257年)10月15日 宗尊親王、北条時頼の上覧相撲が行われた。吾妻鏡)
室町時代(1392年)〜(1573年)足利将軍家もしばしば相撲見物を行っている。足利時代末頃職業相撲が発生した。
元亀元年(1570年)3月3日織田信長が常楽寺にて相撲上覧を行った。『信長公記』
天正6年
(1578年)2月29日織田信長の上覧相撲が安土城にて行われた。
信長亡き後も豊臣秀吉、秀次の上覧相撲が行われた。
文禄5年(1596年)関西の職業相撲の団体約10名が九州・筑後に巡業。

江戸時代に入ると 京都、江戸、大阪に於いて興行としての勧進相撲が盛んに行われる様になりました。

相撲 勧進相撲

本来 勧進相撲とは神社仏閣の再建や修繕費用が必要な時、相撲の興行を行い興行収益の一部をそれに充てる事を目的にした。当時、各地に相撲を生業(なりわい)とする いわゆる職業的な力士集団が生まれており、寄進をする勧進相撲に参加した。
次に興行目的の相撲も勧進相撲と呼ぶ様になったのは幕府寺社奉行の許可を必要としたという
いわば特殊な事情が有った故であります。
興行を行うと太鼓櫓(やぐら)相撲 歴史 太鼓櫓を立て早朝から太鼓を鳴らす、近隣に力士と言う大男が闊歩し人の出入りが激しくなる、その為 どうぞ御免下さいと言う意味の奉行の許可を必要とした。
現在でも大相撲の巡業の主催者を勧進元と呼んでおります。

許可が下りた事を祝う事を
御免祝いと言い太鼓櫓を立て蒙御免の立て札(御免札)を立てる事が出来ます。(御免札)は興行が許可された証です。
御免札
現在でもこの慣習が引き継がれ大相撲の本場所前には所管の関係各所の許可を得た後 必ずこの御免祝いを行い所轄の自治体関係、消防、警察関係者、保健所、報道関係者を招いて場所開催の日程を報告します。
基本的に御免祝いが済んではじめて 太鼓櫓の設営相撲 歴史 太鼓櫓、桟敷の構築、土俵造り等 興行準備作業に入れます、場所直前に大きく相撲字で書かれた御免札を立て初日を迎えます

この様な点からも相撲という競技の特殊性と歴史の重みが感じられます。

正保2年(1645年)6月京都・糺森にて公許勧進相撲が行われる。『古今相撲大全』
貞享元年(1684年)富岡八幡宮で江戸の勧進相撲が行われた、江戸勧進相撲発祥の神社といわれている。

後世 明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する横綱力士碑が建立されました。
新横綱誕生時には新横綱の土俵入りが奉納されます。維新の志士・伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名も見えます。
相撲 横綱力士碑

元禄15年1702年)4月大阪・堀江にて寄進をしない興行目的の勧進相撲が公許される。この勧進相撲がその後大きく発展し現代の大相撲の礎となったと言えるでしょう。
享保年間(1716〜1735年)この頃から大阪及び京都番付が見られる様になりました。
宝暦7年(1757年)江戸相撲において縦型番付が最初に発行されました。これをもって江戸相撲の独立と考えられます。
京都相撲、大阪相撲は横型番付でした。相撲 横番付け
宝暦11年(1761年)10月 蔵前八幡社で開かれた場所の番付の勧進相撲の文字が勧進大相撲となった。

寛政元年
(1789年)11月には小野川喜三郎と谷風梶乃助に吉田司家より
横綱土俵入りの免許がおり これが歴史上実質的に現在の横綱制度の始まりとされています。

大相撲 横綱

小野川喜三郎(画像クリックで拡大)谷風梶乃助(画像クリックで拡大)

寛政3年(1791年)6月 江戸城吹上で11代将軍徳川家斉の上覧相撲が有りました。
谷風梶之助と小野川喜三郎の上覧相撲が有り、このとき谷風が将軍家より弓を賜り、これを手に土俵上で弓を受け「敬い奉げて四方に振り回し」舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされる。
文化2年
(1805年)春場所中 ”め組の喧嘩”の事件が有りました。
天保4年
(1833年)10月 江戸・本所回向院境内が定場所となりました。

勧進大相撲
画像クリックで拡大
回向院境内之図・広重

嘉永2年(1849年)4月 江戸城吹上で将軍家慶の上覧相撲。
嘉永6年(1853年)6月3日 ペリーの率いる黒船が浦賀来航。

嘉永7年2月 歴史的な戦いがペリー提督の前で行われた。
日米和親条約が締結された嘉永7年(1854年)2月26日。大関・小柳常吉、鏡岩以下38力士が、力技披露のために幕府から横浜に招集された。土俵入りやけいこ相撲、米俵運びなどを見せたところ、米国側の随行レスラーとボクサーが「チャンピオンに挑戦したい」。指名された小柳と米国人ボクサーの間でこんなやりとりがあった。「投げ殺してもかまわぬか」「かまわん。だがな、殴り殺すことも許されるのか」。殺伐とした中で、小柳と身長208センチの幕内力士、白真弓が出陣して相撲技で粉砕した。

面目をつぶされた米国側は、レスラーのウイリアムスとブライアン、ボクサーのキャノンが3人で同時に小柳に襲いかかった。小柳は、キャノンのパンチをかわして小手投げを打って踏みつけ、タックルにきたブライアンを小脇に抱え込み、ウイリアムスを足払いで倒した後にベルトをつかんでつるし上げてしまった。
一瞬の圧勝劇だった。

相撲 幕末力士 相撲 小柳常吉

禁門の変で敗れた長州では藩論が尊王攘夷より公武合体論が主流を占めてきた。
元治元年(1864年)12月 これに危機感を感じた高杉晋作は功山寺で再度挙兵する、
この時呼応したのは当初
伊藤俊輔(博文)の率いる力士隊約30人と、石川小五郎の遊撃隊約50人だけであった。
後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年3月には公武合体派等の保守派を排斥して高杉晋作、伊藤博文等の
尊王攘夷派が勝利し、藩の実権を握る。その後徳川幕府による
第2次長州征伐(1866年慶応2年6月)に対して備えをし、これに勝利し第2次長州征伐を制止した。
この戦いには坂本竜馬の亀山社中も高杉に加勢し勝利に貢献している。
これを機に、長州藩は倒幕に向けて一気に動き出した。
坂本竜馬仲介の 薩長同盟、大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て慶応4年4月11日 江戸城無血開城、
江戸時代が終焉。 力士を抱えていた大名が崩壊し力士達の環境も変わって行く事になる。
明治維新時では多くの力士が勤皇の志士となって働いています。

力士隊

画像クリックで拡大(中央)高杉晋作の右に力士隊を率いた伊藤俊輔
明治4年 維新政府により裸体禁止令、断髪令、相撲禁止の議論が出たが
御自身自らも相撲をとられた明治天皇及び伊藤博文(伊藤俊輔)達の力により難を逃れる事になる


明治維新以降

慶応4年(明治元年・1868年)4月17日 大阪・坐摩神社にて 明治天皇が京都力士を天覧されました。
明治2年(1869年)3月 大阪相撲は横型東西二枚番付を江戸風縦一枚番付に改めた。
6月 廃藩により各大名の抱え力士がその抱えを解かれました。
明治4年3月 京都において初の京都・東京・大阪の三都合併相撲が興行されました。
明治4年8月 維新政府によって断髪令が布告されたが、力士のみ「まげ」が不問に付された。
相撲力士の「まげ」

明治21年1月 番付表で十両が少し太く書かれた。
明治22年1月 東京では江戸時代以来の相撲会所の名称を改称し東京大角觝協会とし、年寄名義88名の限定等が行われました。
明治42年2月 東京で大角力協会規約が追加され 
横綱の称号は最高級力士ではなく最高位力士であると地位として明文化されました。
明治42年6月 両国国技館・開館 これにより晴雨にかかわらず10日間興行が可能となりました。
相撲 両国国技館

明治43年1月 大阪力士 大木戸の横綱問題で東京・大阪大角力協会が絶交。
大正元年11月 大木戸の横綱問題で絶交していた東京・大阪両協会が和解しました。
大正12年9月 関東大震災で国技館が全焼した。
大正14年4月 東京赤坂・東宮御所において摂政宮殿下(昭和天皇)の誕生日祝賀の為の台覧相撲が行われ、
その際の御下賜金をもとに摂政宮賜杯(優勝賜杯)が作成されました。
大相撲優勝賜杯

大正14年7月 それまで何かと張り合っていた東京・大阪両大角力協会は解散して大日本相撲協会を結成する為の調印がなされました。
東京側が大阪に東京だけでは無く双方一緒に摂政宮賜杯を争奪する事を大義とすると持ちかけた為
大阪方の面目が保たれ交渉が順調に進んだ。
12月28日 東京大角力協会より申請されていた財団法人大日本相撲協会が文部大臣より認可されました。
大正15年1月場所で優勝した31代横綱・常ノ花が一番最初に賜杯を授与された。
昭和2年1月 東西両角力協会が正式に合併し財団法人大日本相撲協会を組織の名称とした。
昭和3年1月 土俵の仕切り線を設けた(60センチの間隔をおいて2本の白線を引く)。
仕切りの時間を設定した(幕内10分、十両7分、幕下5分) 。
昭和6年5月 土俵の直径を15尺、二重土俵を一重に改定し、土俵の屋根が神明造りに成りました。
昭和7年1月 相撲道の改革を訴え西方出羽ノ海一門の力士が新興力士団と称し大井町・春秋園に籠城する。
これに呼応した東方力士の一部も革新力士団を結成し協会から脱退した為この年の一月場所の興行が不可能となりました。(春秋園事件)
昭和12年大阪市城東区関目町に大阪大国技館が完成し6月12日から13日間大阪準本場所が開かれた。
昭和14年5月 15日間興行開始。



日米開戦以降

昭和16年12月 真珠湾攻撃により日米開戦。戦事下においても相撲興行は行われました。

昭和 場所名 優勝力士名 地位    所属部屋 成績
16年 春場所 双葉山 定次 横綱     立浪 14勝1敗
夏場所 羽黒山 政司 大関     立浪 14勝1敗
17年 春場所 双葉山 定次 横綱    双葉山 14勝1敗
夏場所 双葉山 定次 横綱    双葉山 13勝2敗
18年 春場所 双葉山 定次 横綱    双葉山 15勝0敗
夏場所 双葉山 定次 横綱    双葉山 15勝0敗
19年 春場所 佐賀ノ花 勝巳 小結    二所ノ関 13勝2敗
夏場所 羽黒山 政司 横綱     立浪 10勝0敗
秋場所 前田山 英五郎 大関     高砂 9勝1敗
20年 夏場所 備州山 大八郎 前頭1   伊勢ヶ濱 7勝0敗
秋場所 羽黒山 政司 横綱     立浪 10勝0敗

昭和19年東京両国・国技館が軍部に接収されました。
関取衆も軍事教練に駆り出されました。
相撲 関取 軍事教練相撲 関取 軍事教練

昭和19年5月 後楽園球場で晴天10日間の興行が行われました。
昭和19年11月 後楽園球場で晴天10日間の興行が行われました。
昭和20年3月 空襲で両国・国技館が被災。
相撲 両国・国技館被災前の両国・国技館

昭和20年6月 被災した国技館で7日間の非公開興行。

昭和20年
8月 終戦
昭和20年11月 被災した国技館で戦後初の10日間の本場所興行が行われました。
昭和20年12月 占領軍に国技館が接収されました。

昭和21年 被災した国技館の修理が遅れ本場所(夏場所)が初めて中止されました。

昭和22年6月 明治神宮外苑にて夏場所 晴天10日間の興行が続行されました。
昭和22年11月 明治神宮外苑にて秋場所 晴天10日間の興行が行われました。
殊勲賞、敢闘賞、技能賞が設定されました。
昭和23年5月 明治神宮外苑にて夏場所 晴天11日間の興行。
昭和23年10月 大阪仮設国技館にて本場所11日間興行。
昭和24年
1月 浜町仮設国技館にて13日間興行
昭和24年
5月 浜町仮設国技館にて夏場所15日間興行
昭和24年
10月23日 大阪秋場所千秋楽。 大関・千代ノ山(出羽海部屋)13勝2敗にて優勝 直後の祝宴。
中央・千代ノ山 左・大昇 
宴席の中央に優勝賜杯が置いて有りますがこの頃は優勝者に賜杯を一時預けていたと推察されます。


昭和25年1月 東京蔵前・仮設国技館にて15日間興行が行われました。
仮設の蔵前・国技館はその後何度も改修された。天井は無く屋根の鉄桟が丸出しではあるが観客の熱気で 
いわゆる鉄桟を揺るがす大相撲が繰り広がれていった。
昭和60年1月 現在の東京両国・新国技館開館時この雰囲気の伝統を残す為、蔵前同様天井を造らない事になる。
相撲 蔵前・国技館

昭和27年1月 明治42年1月の東京本所・回向院以来43年ぶりに力士幟(のぼり)が復活。
相撲 蔵前・国技館 力士幟

昭和27年9月 四本柱を撤廃して吊り屋根に四色の房を吊るす。
青・赤・白・黒の房の色は方角を守る神 4守神を意味します、
(東・青龍神)(南・朱雀神)(西・白虎神)(北・玄武神) 又 春夏秋冬の意味も併せ持って表現しています。
相撲 吊り屋根><BR>
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昭和28年
1月 大阪を春(三月)、東京が初、夏、秋の年4場所となる。

昭和29年9月 東京蔵前・国技館 改修が済み開館する。

木製鎌倉彫りの記念品が作られました
裏書き 蔵前国技館落成記念 財団法人大日本相撲協会

昭和29年 蔵前・国技館での夏場所
相撲 蔵前・国技館
相撲 蔵前・国技館相撲 蔵前・国技館画像クリックで拡大

昭和30年5月 夏場所10日目 蔵前・国技館にて 昭和天皇の戦後初の大相撲御観覧が有りました。
御製の句〔ひさしくも みざりしすまひ ひとびとと てをたたきつつ みるがたのしさ〕を残されました。
悲惨な戦争と戦後処理の終わった安堵感、平和の喜びが感じ取れます。
相撲 天皇御製の句碑御製の句碑 現・国技館正面横

昭和32年1月 11月に九州本場所を設け年5場所とする。正式呼称を1月、3月場所の様に月を使用する。

昭和33年1月 7月に名古屋場所を設け年6場所制とする。

昭和33年1月 財団法人大日本相撲協会が財団法人日本相撲協会となる。
財団法人日本相撲協会が公表している寄附行為 第 2 章にこの法人の目的が記載されている。
(相撲道の維持発展と国民の心身の向上に寄与することを目的とする。)      

昭和33年
3月 45代横綱・若乃花 幹士 誕生により栃若時代が到来、
テレビの普及に伴いその後、大鵬・柏戸の時代、北の湖・貴乃花の時代
千代の富士全盛の時代へと時代が移って行った。
相撲 横綱・若乃花
昭和43年1月 内閣総理大臣賞が新設された。
昭和45年5月 仕切り線の間隔を10センチ広げて70センチに改定。
昭和59年10月4日 蔵前国技館閉館式。       
昭和60年1月 現在の東京両国・新国技館開館。
相撲 両国・新国技館相撲 両国・新国技館

平成7年1月 65代横綱・貴乃花 光司 誕生
平成10年7月 66代横綱 若乃花 勝 誕生により 若貴時代といわれた。

平成13年
1月 決まり手を82手にする。
新弟子採用検査が改正される。体格検査基準が2つに区分された。
第1検査:身長173cm以上、体重75kg以上
第2検査:第1検査の基準に達しない者で身長167cm以上、体重67kg以上の者の場合
運動能力検査を行う。
幕下付け出し制度が一部改正された。アマチュア相撲の成績により「幕下10枚目格」
「幕下15枚目格」に付け出す。

平成15年
3月 68代横綱 朝青龍 明徳 誕生。
地方巡業が日本相撲協会の自主興行から勧進元への売り興行に戻る。

平成16年
1月 公傷制度が廃止された。
外国出身力士の上位での活躍が目立ち始めた。

平成17年12月 日本相撲協会の財団法人設立80周年目となる。

平成19年5月場所  相撲の歴史の上で初めて外国出身関取が最多の18人になる。

平成19年
7月 名古屋場所開設50周年記念となる。  

平成20年9月 外部より招いて新たな役員を設置する。

平成22年
1月 相撲の歴史上3位の優勝回数25を誇ったモンゴル出身横綱・朝青龍が「品格」を問われ自ら引退した。

平成22年10月10日 平城遷都1300年祭が開かれている奈良市の平城宮跡で奈良時代に国家儀礼として行われた 天覧相撲「相撲節会(すまいのせちえ)7月7日に国家儀礼として行われていた」が再現された。奈良県相撲連盟のアマチュア力士ら10人が登場し微妙な判定は天皇の裁断を仰ぐ「天判(てんぱん)」が行われることや、引き分けを「持ち」と呼ぶなどの解説を交え、5番にわたって取組を実演した。


平成23年3月三月場所が相撲の本場所の歴史上2度目としての中止となった。1度目は昭和21年被災した国技館の修理が遅れ本場所(夏場所)が中止されています。

平成23年4月 五月本場所を五月技量審査場所として無料公開することになった。

平成23年7月 通常の七月場所が開催されました。

平成24年1月 12代理事長に北の湖敏満親方が再就任

平成26年1月30日、日本相撲協会は公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの衣替えで、引き続き税制の優遇を受ける。東京・両国国技館で記者会見した北の湖理事長(元横綱)は「広く国民の皆さまに親しまれる相撲協会を築き上げたい」と語った。31日に新たな理事の候補を決める選挙を実施するが、大相撲三月場所(3月・大阪市)は現体制で開催する。三月所千秋楽の翌日にあたる3月24日に、公益法人として初めての評議員会と理事会が開かれ、新体制での運営が始まる。

平成26年
3月 71代横綱・鶴竜 力三郎の誕生で横綱3人が全てモンゴル出身力士で占められる。

平成27年
1月25日 大相撲一月場所千秋楽満員御礼。18年目ぶりに東京場所で満員御礼が15日間読いた。
現在 三、五 七月場所も15日間満員御礼が読いています。

平成27年11月20日、日本相撲協会の第55代横綱で12代理事長を務める北の湖敏満氏(本名小畑敏満=おばた・としみつ)が午後6時55分、福岡市の病院で直腸がんによる多機能不全で死去した。62歳だった。

平成27年12月18日より13代理事長に横綱・北勝海の八角信芳親方が就いています。

平成29年1月場所において 大関・稀勢の里が逸ノ城を寄り切って13−1で初優勝を果たし横綱に昇進した。 平成29年1月27日 明治神宮にて72代横綱・稀勢の里の奉納土俵入りが雲龍型で行われました。化粧まわしは初代・若の花所有のものを使用した。


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